五月一日の不安対抗

私はこれから「不安を感じている」と言うが、これを不安とよびうるかについて確信はない。

誰だってそうだろうが、ではどうしているのだろう。だれかにとっての赤色が誰かにとっての青色かもしれないみたいな、そういうものなんじゃないか。でも不安みたいな感覚の場合は、それがどういう感覚であるかについて言語化されていたり、その感覚を表象する作品が作られたり、誰かに共感したり、そういった物事を通してなんとなく確からしい同定を行うことができていそうだ。

また、これは不安と呼ばれる感覚であると確信しなければいけないという決まりもない。不安かもしれないしそうじゃないかもしれないというようなあそびのある捉え方でいることを、禁止する理由はないかもしれない。

 

私は不安を感じている。時代やこれからの生活のことではない。もっと短い時間の中での話として、不安を感じている。おそらく不安である。なんだかわからないこの立ち行かなさを「不安」と名付けて、「不安を感じている」と発言することで何かが先に進む気がする。その不安thingyについて、全く稚拙な書き方であったとしても記述することが良い気がする。他にできることもないのでそうする。

 

この不安は、わたしの生活を妨げる。こうできたらいいなという時間の過ごし方をさせない。ほかにそれを妨げる要素はなく、ただその不安があることだけが問題であるように思われる。それが本当にそうかは知らない。いろんな細かな要因があって動きが止まっているが、ひとつひとつ見ていくのはめんどくさいのでそれらを一つにまとめて考えているのかもしれない。もしくは、なにかべつの要因があるがそれに目を向けたくないみたいなこともあるかもしれない。

 

その不安を解消する手段について、いくらか検討がつく。それらがこんなブログを書くよりもずっと良いものであるという感じがする。それらが確実な手段でなくとも、試してみるべきだというような考えを持つこともできそうである。

 

しかしそれを行うことを妨げるという性質を、この不安が持っているような気もする。

どうにかしたくない。どうにかしたらこの不安は消えてしまう?消えてしまう前にその意味を解き明かしたい?そうしないとまた繰り返してしまう?

痛みは身体の故障を知らせるアラートかもしれない。そういう気持ちかもしれない。

しかし、それをダヴィンチコードのような、偉大なる謎のように、大いなる意味を持ったもののように捉えるのも変かもしれない。ただの感覚であり、それとして粛々と処理すればいいかもしれない。

 

私の不安の内実は、僕がなにかをしたということである。僕は今朝起きて、何かををした。それは自分の楽しさのために行ったことであり、楽しかった。しかしなんだか足りない。楽しさの量が足りないということではない。私はそれをなんとなく始め、そして「私はこの行為をなんとなくやってる」と思った。そしてそうではなく、「私はこうするためにこういうことをするぞ」と明確に思い、「私はその行為を行うぞ」と決めてから行いたいと思った。そうした方が楽しいだろうからそうするべきだろうと思った。いや、楽しさではなく、その行為を終えた後に「あれ、何やってたんだっけ私は」となんだか煙に巻かれたような気分になるのがいやという気持ちの方が強いかもしれない。じっさい、そういう気分になっていて、それがなんだかとても嫌だった。なんかこうだいたいそんな感じの気持ちだった。そしてそこで詰まった。「じゃあたった今からは、そのように意識的に行為を行うようにしよう」と思うことに抵抗感を覚えた。その辺りでこうやってブログの記事を立ち上げ、これを書き始めた。そして書き始めになにかわかりやすい言葉を必要とし、「不安」という言葉が選ばれた。

 

この説明は、正しくないと思う。何か違うと思っている。しかし全く間違っているわけでもなく、ある程度は関連しているだろう。

意味があるかは知らない。書くほど、「いや、なんかそれも違う」という気持ちがつのっていってとても落ち着かなかった。嘘をつくつもりはないのに、間違ったことを真実として記述してしまうのが怖い。誰かに、「あいつは自分に何が起こっているかを全てわかっていると思い込んでいる」と思われるのが怖い。

 

疲れたので公開しようと思う。

このブログに何を書いたのかよくわからない。わかっていると思われたくない。

責任を放棄したい。

 

なんだか「不安を誰かに解消してもらおうと思うのはよくない。自分でどうにかするものである。」みたいに書かれていたツイートが思い出される。そのあたりに問題があるかもしれない。よくわからない。

 

解決はせず、もやもやしたままである。時間だけ過ぎたようで苦しく思う。

このまま終わったら、もしこれが物語だとしたらまったくひどいエンディングだと思う。

しかしこうやって記事にしたのは初めてで、個人的にそれを褒めたいと思う。

そしてそれが、一般的に見て褒められるようなものであるとは決して思っていないということを書いておきたいという脅迫的な気持ちもある。

 

おわり